食いしん坊、北米でヴィーガンになる

北米で植物性食品を食べて強く生きる記録

違和感と「ルールを破る」こと

和食が欧米で広まると、もちろん欧米風な、こっちの人たちが「いいんじゃない?」と思うけど日本人はビックリな使われ方がされるようになりますね。

まあ、スパゲティが日本にやってきて、日本人に十分馴染みが出てきたら「ナポリタン」とか「たらこスパ」とか、本場イタリア人がびっくり仰天するようなものが発生したのと同じですよね。

というわけで、私はヘンテコな寿司に文句をいう気持ちはあまりなくなりまして。

まあ初めて見たり聞いたりした時にはもちろん驚き、「なんてこっちゃ!」と思ったんですが、だんだん見慣れ聞き慣れて、ちょっと試して「ふ〜む、寿司って感じじゃないけど、別物としてあり得るかも、いいんじゃないの、これが好きなら」と受容できるようになりました。

でも、それでも未だにちょっと抵抗がある食品があるのです。

和食で、和食として食べるならそれほど、どうってことないとも言えるのだけれど、

欧米の人たちがそれを取り入れたレシピをブログやレシピサイトやレストランなどでほらほらって嬉しそうに公表したり販売してるのを見るたびに、かゆいような背筋がぶるっと寒くなるような感覚を覚えるものが、、、、。

 

それは、そば。

私は別にそば職人でもなければそばにこだわって生きてきたわけでもないのですが、麺類に関しては、のびたもの、茹で過ぎたもの、どう茹でてもあんまり美味しくないもの、など、嫌いなんです。

北米に来た当初、何人かのシェアメイトと一緒にアパートに住んでいた頃に、夕飯でパスタを茹でてソースを絡めて食べた残りをタッパに入れて「明日弁当に持ってく」というのを初めて目撃した時には、びっくり仰天して、日本の友達に手紙を3枚くらいぎっしりと書きました(Eメール普及ちょっと前の話なので)

例えば、緑茶を入れて、飲みきらなかった分を翌日飲むか、と言われたら、ほぼ全員が、それは飲まない、茶葉を入れ替えて新たに入れ直す、というと思うのですが、その飲み残しをポットに入れて持っていく、と言われたのと同じような衝撃でした。

 

まあ、今は慣れて、ショートパスタなら、残り物を翌日弁当に持っていくというの、自分でもやるようになりましたが、スパゲティとか長いやつは、やっぱりブチっとちぎれるのが嫌だし、抵抗あります。

そんな私ですので、よくヴィーガンとかヴェジタリアン、オーガニック食材、などを売りにしてるカフェなどで見かける、そばヌードルのサラダというやつ、あれを注文したことは皆無だったんです。

 

でもね、今日は、よく行くヴィーガンのファストフードのお店で待ち合わせがあって、お腹減ってたので、「今日のサラダの盛り合わせ・小」をお願いしたんです、今日のサラダがなんだったのか確認もせずに。面倒だったのでつい。

そしたら、出てきましたよ!

いろんな葉っぱや人参やナッツやスイートポテトやあらゆる美味しそうなサラダのアイテムの下の方に、そばがくるくると、ドレッシングに和えられて潜んでいるプレートが!

 

わー、そばがサラダに入ってる!

あちこちで見かけたけど、初めて食べるわ!

と、ちょっとドキドキしながら食べてみたんですが、

やっぱりガックリきましたよ。

だって、そばが伸びきっていたんですよ。

ブツブツっとコマ切れになってて、そばのコシとか、そばの勢いというのがなくて、

そばのほんのり甘い風味がドレッシングの強烈な(いや、これが別のものを和えていた場合は程よかったかも)味に打ち消されて、なんというか、そば、捨てる直前?みたいな雰囲気でした。

もちろん、捨てる直前のそばを使ったわけではなくて、彼らの中では普通に茹でて、水を切って、冷まして、ドレッシングに和えて、作ってから2、3時間経った、パスタサラダの蕎麦パスタバージョン、ってことですよね。

でも、私にとっては「うううう、茹で過ぎなうえ茹でてしばらく経った悲しい蕎麦」

なんせフォークですくうたびに引っかかってくるそばは2センチくらいにブツ切れていたし。

まだまだ蕎麦が欧米流に細工されたものを抵抗なく受け入れるキャパは私にはなかったと再確認したのでした。

 

そしてふと思うのです、

イタリア人で日本に住んでる方とか、どう思ってるんだろう、あの「スープスパ」「たらこスパ」「和風スパ」「餅入りピザ」などなどのことを。。。。

 

自分が乗り越えられない個人的な味覚のコンフォートレベルを抜きにして言えば、各国の食品って発生してからいろんな発達過程を経てある程度の完成度がありますけれど、それを後から発見した人たち(外国人とか外国文化圏の人たち)が好き放題に変えて、ルールを破ってとんでもないものを作る、その現象そのものは、まあ不可避なものだなと思うし、そこから面白いものが生まれてくるわけなので、「どこの国の料理もそこで完成されている伝統的なやり方に従って作るべし」とは思いません。

寿司に天ぷらを入れたりチキンを入れたり、まき寿司を揚げてしまったり、びっくりするようなことを各地でされていますけれど、それだって別にそれでいいと思います。

日本に住んでる方は日本での日本流の各国料理はむしろオリジナルよりも向上してる、、という言い方をすることがあるように思いますが、私はそれは、日本舌を持ってる人だから日本で改変されたものが改善されたものに感じるだけであって、別にそれは他の文化圏の人にしてみれば、改善でもなんでもなく、単なる日本化でしかないと思うのです。

例えばラーメンが中華の麺類の改良版である、というの、それって日本舌を持ってればそう感じるということだと思うし、それを食べた西洋人がそれを喜んで食べるというのもわかるのですが、中国舌を持った人が、感覚的にそれに同意するかどうかは、別の話だと思うのですよね。

日本の食べ物がよそに行って大改良されて大いに受けるようになったけど、日本人にとってはそれは改良ではなくて酷い手の入れられようで、我慢できない、というのだってそのうちに色々と出てくるかと(いや、すでに色々登場してるかも。)

その中の一つが、ひょっとしたら、蕎麦・ヌードル・サラダとか、沸騰させたミソ・スープだったりするのかも。

 

しかし今日のあのそばヌードルは、やっぱり自分にとっては衝撃的な不味さだったかな〜。

でもまあ、脳内では、人々が日本でいう「そば」を「バックウィート・ヌードル」として好きに応用して楽しんで食べていること自体は認識しているし、いいこっちゃと思っているんですよ。

慣れの問題ですかね〜

自分が注文しなきゃいけないというわけではないから、暖かく見守りつつ、今後は絶対注文しないようにしようかな。。。でも、怖いもの見たさでまた来年あたり食べてみたい気もしますが。。。。

 

 

 


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