食いしん坊、北米でヴィーガンになる

北米で植物性食品を食べて強く生きる記録

食べ物を他人に無理強いすることについて

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夕方友達が遊びに来て、二時間ほどビールを飲んでヤイヤイおしゃべりして帰って行きまして、ああ、ビール飲んだしご飯作る気力ないわー、面倒臭いわー、(友人は家に作り置きのパスタソースがあるのでパスタを茹でるだけだ、と言って帰って行ったのです。ずるいですねえ。)と冷凍庫を探したら、以前作りすぎて余ったので冷凍してあったペスト・ソースが。我が家の手抜き料理です。一緒にインゲン豆をパスタの長さに切ったものを茹でて、炭水化物過多にならないように、、、それだけちょっと工夫してあります。笑

 

なんでも食べることが良いとされる価値観

今でこそヴィーガンですといって植物性食品だけを選んで食べている私ですが、子供の頃は「なんでも好き嫌いを言わず、綺麗に食べ終わる」ことが正しいこととして育てられ、嫌いなものを食べたくない、なんて選択肢はありませんでした。

 

私くらいの世代の人とお話ししてると日本に限らず大概どこの国の人もこういう経験多かれ少なかれしていらっしゃる様子です。

 

親に世話してもらっている間は、子供はやっぱり親の判断というか、指導というか、管理の元にあるから、基本的にはそうなりますね。

 

文句を言わずにありがたくなんでも食べることが正しい、という考え方は、日本に限らず、やっぱりどこの文化圏にも見受けられる普遍的な考え方でしょうね。

100年前や千年前の食卓では選り好みなんかしてる余裕はなかったでしょうし。

 

 

子供の頃のきゃすぴえが苦手だった(嗚咽しながら涙を出しながら流し込んでいた)食べ物といえば、

  • ほうれん草(特に白和えになったものが苦手でした。舌触りのせいでしょうか?)
  • 豚肉や牛肉の薄切り(ステーキも苦手でしたが頻度は低かったので。笑)
  • 「粗挽き」ソーセージ(魚肉ソーセージより高級というか美味しいと言われているやつですが、ダメでした。)
  • 鳥の皮のブツブツっとしたところ(今でこそ皮を避けて調理する人も結構多いですが)
  • 目玉焼き(なぜ?自分でも理由は覚えておりません)
  • スクランブルエッグ(くるくるっと巻いた日本の卵焼きは好きでしたが、スクランブルエッグはダメでした、、、なぜ???)
  • 温めた牛乳(表面にうっすら膜が張るのがもうどうしてもダメで)
  • 冷たい牛乳(牛乳は何れにしてもダメでしたが、冷たいものは一気飲みして口をゆすいだり他のものを食べて味をごまかすことはできました。)

 

結構ありますね。今は動物性食品以外はなんでも食べますよ。笑

 

 

抵抗する子供への対応は、、、

 

我が親は基本的には食べ終わるまで許してくれない人たちでしたけれど、やっぱり親だからある程度は子供の嗜好を理解していて、無理なものがあんまり続かないように配慮してくれていたと思います。

 

逆に学校とか幼稚園とかで出てくるものが食べられない時の恐怖はすごかったです。

 

何しろ当時は教育者が「文句言わずに全部食べなさい」という時代でしたから。

 

 

自分以外にも、しくしく泣いててずっと食べられない食品が乗ったお皿を前に座らされて休み時間もじっとしていた同級生の姿を覚えています。

私は吐き気と戦って飲み下して給食の時間内で決着をつけていましたけれど、それでも吐き気がするのに飲み下すのって体が反応してますから辛かった。

 

ああいうの、今では多分日本でもありませんよね?

食べたくないものを人に強制することって危険もはらんでいます。

 

どこかの小学校でお蕎麦のアレルギーがあるという生徒に教師が「食べないと席を立たせない」と強制して、アレルギー反応で亡くなってしまった、、、というニュースを聞いた記憶があります。

そういう事件があった頃から、徐々に、食品アレルギーとか不耐性のある人もいるんだ、ということが広く認識されるようになったんだと思います。

 

嫌いだから、わがままだから、だから食べない、という受け止め方ではなくて、食べられない理由があるかもしれない、というふうに受け止め方が変わりましたよね。

 

もちろん、食べ物はお百姓さんや漁師さんが日々大変な思いをして育てたり採ってきたもの、粗末にしてはいけませんし、ありがたくいただくべきもの、という考え方は大事だと思います。

でも、どうしても苦手なものって強制されて無理やり飲み下しても体に良いとはあまり思えません。

野菜を作ったお百姓さんだって、無理やり呑み下す人よりも、美味しいと思ってくれる人に食べてもらいたいんじゃないでしょうか、、、。

 

ありがたい、と思って美味しくいただくことができる時まで、そっとして置いてもらう、という選択肢があっても良いと思うんですよね。

 

 

 

食べ物はおもちゃじゃないけど、義務でもない 

 

苦手な食べ物を前に表情が硬くなっていた私に、祖父は「子供にはまだ美味しさがわからんのじゃ、この美味しさがまだわからんってことは、まだまだお子様ってことじゃ」

と子供の私に子供子供とバカにしたようなことを言って笑っていたのですが、まあそういうことですよね。

 

考えてみれば、匂いが強烈な珍味とか、子供にはどうせわからないんだしもったいない、というようなものが酒のツマミとして祖父と父の席のところにだけ置いてあった場合は興味津々で「それ何?」と言って分けてもらってたり。

 

子供にはわからないよ、無理だよ、と言われると逆に「わかるかもしれないし」と口にして、強烈な匂いに「やっぱり無理だ、もう要りません」とギブアップしたものもあれば、「これは美味しい」と言って大人を驚かせたものもあったり。

 

無理強いされて飲み下したものよりも、そうやってワクワクして食べたものの方が美味しくなくても心も体もリラックスして楽しめます。当然といえば当然ですが。

 

 

苦手なものを無理に食べさせないからと言って、食べ物を粗末にするというわけではないと思うのです。

 

 

世間に存在する食べ物すべてが、有毒物質とかプラスティックとか環境汚染やエネルギー浪費、貧富の差の拡大につながる経済構造とか、そいういうものと無縁だったら良いのですけれど。


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