モラセス・ジンジャー・クッキー
久々にチョコレートチップでもオートミールでもないクッキーを焼きました。
レシピはこちら。
でも材料リストにはないのに作業工程に「塩を加える」とあるので、なんとなく小さじ半分くらいの塩を入れてみました。
パンを焼くのが好きですし、ご飯大好き、麺類大好きで、グルテンフリーとか炭水化物減らすとか、そういうことを考えると気が遠くなるので体調が良い間はとりあえず腹八分目で運動して目を瞑っています。
そんな風なので、元々甘いものが好きでもない私がクッキーとかお菓子を焼くのって「なんでわざわざ欲しくもないものを、炭水化物の許容量クオータを超えかねないのに」と積極的に手を出しません。
食後にケーキとか焼き菓子をデザートに食べるくらいならワインもう一杯ください、と思ってしまう。
とはいえ、やっぱり連れが甘いものも食べたい西洋人なので、全く甘いものを提供しないと、買ってくるんです。
同じ形をしていても、店に並んでるマフィンとかクッキーとか、食べる人間の健康なんか気にしてなくて、売れれば良い、という方針で作られてますからね、甘みがすごすぎます。
なので定期的にあえて甘いものも焼いて「買ってこなくってもたまには出てくるんだよ〜」という素振りを見せておきます。
そしてどうせ焼くなら、あんまり健康に気をつけすぎて味気なくボソボソのものではなくて、ある程度の喜びを感じるようなもので、、、。
とはいえ北米のレシピを見ると、やっぱり砂糖の量みて気が遠くなりますけど。
それでも家で作るもの、世の人々は「ヘルシー手作りお菓子」なんて言いますね。
これが健康的なら店に並んでるのは毒なんでしょうね、本当のところ。
日本語に物申す
たまに日本のメディアの記事などを目にしたり、日本のニュースのビデオを見たり、はたまた日本語の会話をどこかで耳にしたりすると、浦島太郎現象を感じることがあります。
真剣に意味がわからないこともありますが、多くは「意味は推測できるけど、心が繋がらない」
えええ?と思うこともあります。
最近気になるのは、丁寧すぎ語の氾濫です。
昔から丁寧語と謙譲語など、他人と会話する時には色々と気を遣う日本語ですけれども、いつからみなさんこんなに丁寧語過剰になってしまったんでしょう。
例えば、昔は「お百姓さん」とは言ったけど、「農家」でしたし、本屋さんだったけど「書店」だったと思うんですけれど、最近はもう、企業さん、農家さん、なんでも「さん」がついてるようですよね。
それはわかった。
慣れの問題だから、慣れましょう。
北米の寿司も受け入れて生きてるんだから、丁寧すぎる日本語くらいなんてことないさ。
そしたら、病院の医師のツイートで(病院さんの医師さんの?プププッ)
「患者様、、、」てあったんですよ!
患者様って!
そのうち「学生様」「新生児様」「教師様」「トラックの運ちゃん様」なんてのも聞くようになるのかな。
とぼやいていたら、日本語初級学習者さまの夫に「ご飯を入れるボウルのことなんていうんだったっけ、、、、『お・チャワン』だっけ」と。
「チャワンにまで『お』つけるようになったよ最近の人たちは!」なんて会話が昔あったかどうか知りませんが、物の名前に「お」をつけることを説明した時、「日本語では物にまで敬意を払わなきゃいけないのかっ!それは大変だ!」と大受けしていた我が夫。
丁寧すぎる、というのは浦島きゃすぴえの主観であるから、必ずしも気持ちをわかってもらえるわけでもなければ同意を得られることもあるまい、と思いますが、浦島じゃなくて、ずっと昔から気になっていた表現で気に入らないのがあります(何様発言。)
それは、日本のメディアが日本政府のことを「国」という呼び方をすること。
政府って、たとえ同じ政党がずっと政権を握っていても、民主主義国家では選挙を通じて国民に委託されて国民のために働いている(はずの)機関ですから、「国」とは国民であって、政府はあくまで政府です。
「国の取り決め」なんて言ってしまうと、まるで自分たちとは別のところに決定権があるように感じますけど、政府は国民の代表で、国民の意思を反映するためにあるもの、ということを忘れさせようとしているように感じてしょうがありません。
国民の意思が反映されているとは言えないような政府が存続することって日本だけではありませんし、言葉だけで何がどう変わるのか、という気もしますけれど、言葉によって強調されてしまう「お上と民衆」みたいなニュアンスはそのままにしておいて良いとは思えません。
言霊って言いますし。