隔離期間は過ぎたけど、あまり活動的でないので話題に閉塞感感じるなあ、と下書きフォルダを見ていたら、こんなの書いてましたので長いですがアップロードします。
宗教にのっとった屠殺とアニマルウェルフェアを考慮した屠殺
BBCのラジオ番組のポッドキャストで見つけた話題です。
宗教の決まりで食べられるもの、食べられないものがはっきり決まっている人たちが世界中には結構多く存在します。
特に知られているのはムスリムの方たちとユダヤの方達の、ハラルとコーシャー。
両者とも豚肉は不浄なので食べませんが、それ以外にも食べてはいけないものはあり、食べても良い肉類に関しては、屠殺の仕方にも決まりがあります。
その決まりに沿って屠殺され加工された肉は「ハラルミート」などと言うラベルがついて普通のスーパーや肉屋さんでも買うことができます。
ムスリムやユダヤの教えに従う人々は、だからハラルやコーシャー以外の肉は食べられないと言うことになります。
もちろん個人差はありますので、厳格じゃない方も存在しますが、宗教心の強い方や宗教や伝統が色濃く残っている国や家庭で育った人たちにとってはコーシャーであるかどうかはとても重要です。
ハラル肉とそうでない肉の違い
ハラルもコーシャーも、一旦スタンガンで意識を無くしておいてから動物を殺すと言う近代的なスローターハウスのやり方を良しとせず、スタンガンなしで動物の喉を掻き切って殺すのだそうです。
これは、健康でない動物は屠殺してはいけない、と言う教えに基づくとか。
スタンガンで意識を失わせると言うことは、脳にダメージを与えるので、動物が死ぬ間際に健康状態を損なわれるのと同じだと捉えられるのだそうです。
近代的な屠殺の方法ではなぜ意識を失わせるのか
ここで動物愛護と言うことばを使うのも変ですが、Animal Welfare、直訳したら動物福祉?の考え方で、殺されて行く動物たちの恐怖や苦しみを少しでも軽減させるべき、と言う観点で、刃物が体に切り込まれて痛みを感じる前に意識を失わせてあげましょう、と言うことだそうです。
争点
コーシャーやハラルの方法に則った屠殺は、鋭い刃で喉のところをさっと切るため脳に酸素が届かなくなり、動物が痛みを感じるよりも先に死んでしまうような、そう言う方法なのだそうです。
だから、スタンガンなどと言うものを利用して動物の脳を傷めて(不健康にさせて)しまわなくても痛みを経験させることなく動物を食肉にすることができると。
実際には心臓が止まってもしばらくの間は意識があると言いますし、喉をかき切られた動物がどれほどの痛みを感じるのか感じないのか、本当のところは殺してる側が判断できることではありませんし、証明することはできません。
殺される動物は「こっちの方が私たちにとっては負担が少ないです」などと主張できませんし、そんな選択よりもむしろ「殺さないで」と言いたいでしょうし。
この問題は屠殺を実行する社会の中で、どちらが多数派か、という部分が判断基準になりがちだろうと思います。
問題
冒頭のBBCのポッドキャストは、2018年一月にベルギーで宗教に基づく屠殺を禁止にする法律が通過したことを受けて制作されたもの。
ヨーロッパ諸国で宗教的な屠殺を禁止にしているところは年々増加している模様ですし、動物愛護の観点から屠殺のやり方の改善を求める動きはヨーロッパに限られたことではありません。
捕鯨を続ける日本から見れば「西欧諸国が我々の伝統文化に口出ししている」と感じられることは理解しやすいでしょうし、実際に人種・宗教差別を受けているムスリムやユダヤ系の人々は、この法律を明らかに人権侵害であり差別であると受け止めているようです。
「近代的な動物愛護の観点」も「神がこれが一番と言っている」も、動物を食べるという行為に対する罪悪感を緩和するためにあるだけな気がします。
食文化という伝統
同じBBCのポッドキャストで「中国の『ウェット・マーケット』を禁止にすべきか」を聞きました。
COVIDパンデミックが中国のウェットマーケットで野生動物を取り扱うという風習から発生したらしいという報道から派生した反響をうけて昨年五月に放送されたもの。
中国の食習慣から始まった、ということで、アジア人差別が巻き起こりました。
仮に本当に人間が食べるために捕獲して檻に入れておいた動物のせいで伝染したというのなら、外部から「ウェット・マーケットなど不潔でとんでもない。閉鎖してしまえ、禁止にしてしまえ」
という意見が出てくるのも理解できます。
よその文化を蛮行だと思うなら、禁止すれば済むことです。
ここでも、「西欧社会がうちの文化圏の伝統的な食文化に口出ししてる」現象を感じます。
ゲテモノを食べる文化圏って、要するに食いしん坊文化圏だと思うんです。
あとは貧しいからなんでも食べる必要がある場合もあるかな。
中国に限らず、日本だっていろんなもの食べます。
上のリンクのポッドキャストではスコットランドのハギスのことが触れられてますけれど、あれだってゲテモノです。
ヨーロッパや北米では狩猟のシーズンになると、銃を持った人たちが野生の鳥や獣を捕獲して持ち帰って食べてます。
私もヴィーガンになるずいぶん前に、友人のお父さんが射止めたというカリブーのシチュウをいただいたことがありますし、狩の季節にはそういう鳥や獣の肉が食べられていますから、「この野生動物はいいけど、中国のあれはダメだ」という基準はなんでしょう。
ちなみに中国のウェット・マーケットという表現は実際には中国にはなくて、香港の方が使う香港英語の単語なのだそうです。
中国ではゲテモノ市場と一般の市場の区別をしているわけではなく、普通の市場の一角に魚や野生動物などを売る小売店があって、そういう一角では売り物の動物を捌いたりしめたりするため、水を流して洗ったりして床が濡れているので、そういう言い方をすることが(香港で)あるけれど、市場そのものは野菜なども売る庶民の食材の市場なのだそうです。
多様な食文化
食文化とか伝統って素晴らしいものだと思いますし、自分が生まれ育った文化圏では見たことも聞いたこともないものを、旅先で口にして感動するのは人生を豊かにすると思います。
逆に自分の育った文化圏では当たり前のように食べているものが別の地域では食料だと思われていないとか、「生で食べるなんて」と受け止められることも面白いと感じます。
世界中の人々がまるで同じものを食べて同じ格好をして同じ生活をしていたら面白くもなんともない。
それぞれの文化圏の食習慣は大事にしておくべきだという気持ちがします。
一方で、宗教の教えとか伝統だという理由だけで全てが保存されるべきという風には思えません。
奴隷制度や人間を生贄にするような儀式は現代においては認められないものですし、今だに廃止されていなくて問題になっている一部の文化圏での女性性器切除の行為などを、伝統文化だからと尊重することはできないと思います。
変化は未知の事象と無理やり向き合わされることでもありますから、抵抗がありますけれど、それでも人類は必要に応じて行動パターンを変えていかなければいけない。
何が正解なのかは誰にもわからないけれど、既得権を未来永劫保ち続けることができるはず、というのは思い込みでしかなく、異なる世界観を持つ人たちとの共生をするためには、相手に変化を求めるならば己も歪みを修正してみよう、と柔軟になる必要があると感じます。
それぞれの地域で脈々と続くことで「伝統」となった習慣はもともとはその土地で人々が気候や生活条件に合わせて効率よく安全によりよく暮らしていくために編み出した工夫の積み重ねが根源にあると思うので、気候も生活条件もすっかり変化した現在でも意義のある伝統と、現代社会では意味を失ったものとがあると思われます。
そう考えると、現在の地球環境を生き抜くために無理のあるあらゆる事柄は、現実に鑑みて柔軟に対応していくことが必要だといえます。
自分たちを生かしてくれている地球環境を、今後も人類が生息し続けられる状態に保つこと