食いしん坊、北米でヴィーガンになる

北米で植物性食品を食べて強く生きる記録

サンダルに靴下排斥反対、身につけるものの自由

 

 

 

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膝上が薄くなったジーンズ、頑丈で暖かく修繕しました


先週の「今週のお題」は「お気に入りの靴下」

 

ふと思い出したので、週は変わりましたが書きます。

どうでも良い話ですけど、結構大事な話かなと思うのです。

 

そ、れ、は、

サンダルばきに靴下を履くことに対する、社会のバッシング(大袈裟に)

 

格好悪いとかバランスが取れないとか、色々な批判的意見が出てますね。

 

サンダル履いてるときに靴下を履こう!という発想そのものは自分の中では芽生えたことがありませんでしたが、子供時代から思春期の頃あたり、身につける服には全般的に無頓着な子供でしたので、何に何を合わせるのがどうだこうだ、という話題で雑誌が売れるということ自体知らずに生きていました、高校で「お洒落な」友達と出会うまでは。

 

 

子供心、いや、思春期の若者心に印象に残ったのは、世間の人たちが「こだわり」とか「着こなし」とか漠然とした言葉を用いて「こういう装いが良い」「おしゃれである」と批評する中で、「サンダルと靴下の組み合わせ」がまるで風呂に1週間入ってないとかニンニクを食べてから歯医者に行くとか、下着を変えずに仕事に行くとかと同等な「信じられない不潔で迷惑な行為」かのようにこき下ろされること。

 

そんなにダメなことなのか〜、へ〜。

 

実際にサンダルに靴下で歩いてる人を見たことは記憶にないので、それこそ「仮想敵」への総攻撃がなんだか不思議な現象に思えました。

 

 

生きる上で大切な話でもないので、普段は忘れていますが、ある時、モントリオールで暮らすようになってからラジオだったか隣のテーブルの会話だったか、とにかくどうでも良い場面で耳に挟んだのがやはり「サンダルに靴下はダメだよねえ〜」という話。

 

「おお、サンダルと靴下の組み合わせへの完全否定はこの土地でも当然のように語られるのか!」と印象に残りました。

 

日本で「ファッション」という概念すら知らずにいた子供の頃と若干違うのは、実はこちらにきてから目覚めた自転車で長距離ツーリングをするという遊び、出先でついでにテント張ってキャンプするという遊びの際に、「サンダルに靴下履き」を便利に採用するようになっていたということでしょうか。

 

「そういえばそうだったっけ、ダサい、とか言われてたっけ」と思い出して自分の足元を見て「そうか〜、これを見てダメだよね〜っていう人たちがいるんだったっけ」と。

 

でもね、便利なんですよ、サンダルに靴下って。

 

朝方ちょっと冷える時に素足でサンダル履いてると足が冷たくなり、その後自転車に乗るとさらにガチガチに冷えますけれど、分厚い靴下一枚履いてるとそれが防げますし、気温が上がってきたら靴下だけ脱いで素足で過ごせば良い。

 

カヌー漕いでる時など、靴じゃあ水浸しになって最悪ですけれど、サンダルだったら濡れても平気で、陸に上がってしばらくして乾いた頃に、ちょっと靴下を履いた方が心地よい、という状況もあります。

 

濡れたサンダルだと靴擦れしやすいからと、濡れてるうちに靴下を履くこともあります。

 

靴下もサンダルも、気温調整をはじめとする、重要な機能を果たすんですよ。

 

 

だからもしファッション警察に「それはルール違反だ」と言われたって聞く耳持ちません。

この辺の人たちは他人の装いに口出ししませんので、言われたことはありませんけれども。

 

 

いや、問題だと思っているのはそういうことではなくて、なぜだか世の中には「すべての人はお洒落に気を使って身につけるものを選ばなければいけない」「素敵な装いだと世間に認められるようにすべき」という思い込みのようなものが蔓延しているような、そんな風潮です。

 

 

昔は北米の人はお洒落じゃないよね〜、ダサいよね〜、とよく言われていたと思うんですが、最近は北米の人たちも日本の人たちと似たような感じで、他者と同じような格好をしなきゃ、というピアプレッシャーが強くなっていると感じます。

 

知らないだけで、昔もそうだったのかしら。

いや、昔はもっと「格好に無頓着」な人もよく見かけたと思うし、新品で「今年はこれが流行り」とファッション企業に売り込まれたものを従順に買って身につけることがすなわちお洒落、とはみなされていなかったように思います。

大量生産された安価なファーストファッションがどこの街でも同じように手に入る現在は、どこの街に行っても同じブランドの店が並んでいて、おんなじようなデザインのものが何万着と製造され販売され、それを身につけた人たちが何万人も地球上を闊歩しているわけです。

何万着だか何百万着だか知りませんけども。

 

同じような格好をしてないとだめ、と意識的に言われるのは日本くらいかもしれませんけど、大勢の人間が均一化されていくのは不気味です。

 

 

さらに言えば、他人のやること、身につけるものに興味を持ったり口出ししたりするのも、全くあってはならないというわけではないですけれども、ほどほどにしておこうというブレーキが必要ですよね。

 

例えばそれが拳銃所持で、アメリカの特定の州で認められているようなオープンキャリー*だった場合は大いに興味を持ってそれが社会にどういうインパクトを与えるのか議論するべきだと思いますけれど、サンダルに靴下とか下着の色とかナイロンストッキングを履いているかどうかとか眼鏡とか、他者に迷惑をかけるわけでもないそんな個人の自由を縛ろうとするのは馬鹿馬鹿しすぎます。

 

*オープンキャリー(open carry)とは、公衆の場で拳銃を他者からも見えるように所持ち歩くこと。アメリカの一部の州では違法ではありません。

 

 

社会が個人の選択の自由に介入するレベルはそこに住む人たちが長い時間をかけて継承してきた価値観や、個人の権利の保証を求める運動やそれへの反動などを反映していますが、日本の「校則」に現れる日本社会の価値観は興味深いと同時に当事者は気の毒。

こんな活動をしている高校生が存在するようです。

www.kousoku.org

校則を公表してくれている学校はほんの一部分だけなようですし、リンクが壊れているのか、私のブラウザのせいか、閲覧できないんですけども、試みは素晴らしいと思います。

がんばれ高校生!

 

 

お気に入りの靴下の話じゃありませんでしたね。


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