食いしん坊、北米でヴィーガンになる

北米で植物性食品を食べて強く生きる記録

ピッツァのクラストー食べ物を捨てる習慣、と個人のお茶碗

projects.aljazeera.com(A Year In Waste)より拝借した写真。記事のリンクは↓

ピッツァ大好き?

北米人にとってのピッツァって、日本でいうカレーみたいなものでしょうか。

「嫌いだ」とか、「ええ、今日ピッツァなの?嫌だなあ」とか、そういう声を聞きません。

人が集まる時にちょっとピッツァ取ろう、と何箱もの大きなピッツァがテーブルに並ぶ光景はよく見かけます。

 

こういう場面でピッツァの端っこを食べずに捨てる人が結構存在します。

 

 

当然のように「ここは食べないわ」って食べ残す行為って、ちょっとギョッとします。

食べ物を残すことに罪悪感を感じないというのは、どういう心理なのか、と素朴に疑問です。

 

ピッツァ・ハットでしたっけ、どこかのチェーン店が以前、「クラストも美味しく食べられる」と言って、生地の中にチーズを潜ませるという商品を出したこともありますが、あれは売れてたのだろうか。

 

白いご飯だけではダメで、ふりかけをかけないと食べない小さな子供のような感覚で「ソースもチーズも乗ってなくて、生地だけで硬いから嫌」ということらしいです。

 

 

そんな話を同僚としていたら、インターンの学生、19歳の女性が言うには、パンの耳も、硬くて嫌、と残す人が結構いるんだと言います。

自分が焼いたパンの耳を、食べる人が「硬くて嫌」と捨てていたらガッカリするな〜。

 

硬くなったパンをサラダやスープやフレンチトーストにして無駄にしない習慣とか、やっぱり飽食の時代より前に文明が発展した地域ならではと言うことでしょうか。

 

食べ残されるピッツァクラストのイメージをGoogle検索して見つけた面白い記事があるので、リンクを貼っておきます。

projects.aljazeera.com2014年に書かれた記事ですが、食糧生産量と廃棄量の実態などはそれほど変化していないのでは(悪化しているかも。)

 

 

全然大した代物じゃありませんが、うちの茶碗。日本の食器っぽいと思ってつい。
個人のお茶碗

夫と私のご飯茶碗を新調した折、それまでは同じ柄の茶碗を使っていたのですけれど、店頭にあった何種類かの中で気に入った柄の品が二つなく、仕方なく気に入ったのは自分用、夫用には別の柄を選んで買いました。

 

そしてご飯を食卓に出すときに「この茶碗はあなたの茶碗、この茶碗は私のですよ」と言い、ご飯をよそってもらいながらなんだか違和感を感じたのですよね。

我が家にある食器類の全てはどちらが使おうとかまわないものなのに、ご飯茶碗だけ「これは君の、これは私の」って指定するって変じゃない?

 

育ってきた家庭では家族みんなの茶碗が決まっていましたし、兄の一家もそうだし、叔父や叔母の家に遊びに行った時もみんなの茶碗は指定されていたはず。

そう言う家庭は結構多いですよね?

 

 

日本は欧米よりも個人主義の傾向は低いはずなのに、なぜご飯茶碗だけ??

 

しかも汁椀は誰のも同じですよね?

うちの実家は汁椀は個人指定はなかったはずですが、汁椀も個別に決まっている家庭はあるのかな?

 

そういえば実家ではお茶を飲む茶碗も個人指定がありました。

紅茶やコーヒー用のカップはそれはなかったように思いますが、、あったっけ、、、。

ああよくわからない。

 

去年帰省した折には、湯呑みやコーヒーカップは客用を「これあなたのね」と当てがわれましたが、ご飯のお茶碗だけは私の茶碗が奥の方にしまい込んであって、それが出てきました。

 

 

あ、お箸もそういえば個人指定されていたっけ。

夫婦箸なんてのもありますしね。

 

あれ、女性用とされる分だけ短めと言うのが実は不満なんですけれど。

菜箸はあんなに長いのに食事用のだけ何で女性用のは男性用よりも短くするのか。

 

 

 

とにかく、ご飯の茶碗とお箸の個人指定はかなりきっちり固定化されているような印象です。

次にお茶を飲む湯呑み。

 

和食における重要度みたいなものを反映しているとでも言うのでしょうか。

ほら、ご飯って日本では「主」食ですから。

 

いやでも、その「主」の次に大事なのはやはりお茶より味噌汁のような気がしますけれども。

 

 

それともやはり世間では汁椀も個人指定しているご家庭が多いのでしょうか。


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