食いしん坊、北米でヴィーガンになる

北米で植物性食品を食べて強く生きる記録

美しい街?と広告、変な形に膨らむけれど

また変な形に膨らみました

サワドー生地でパンを焼くようになってはや15年くらい。

市販のイーストなど不要で、水と塩と粉と時間さえあれば焼ける、無理なくヴィーガンなパン。

捏ねなくて良いし。

 

パンデミックでみんなが家に籠る生活になった頃、雨後の筍のようにサワドーブレッドを作るユーチューバーやブログが出現しました。

 

すごいなー、みんな上達するの早いし、熱心だね〜。

 

やっぱりきちっと作って記録をつけていて前のと比較したり、科学的なアプローチをする方などは上達も早いですね。

 

私は割とフラフラと風の向くまま気の向くまま。

 

最近やっと、大体外れなく膨らむようになりましたが、今度はなぜだか変な形に膨れるという、今までにはなかった「失敗作」が。

失敗のバリエーションって無限ですね。

成形が苦手なので、えいやっ、と適当に丸めているせいだと思います。

 

たまにパンの本とかユーチューバーさんとかの「こうすればきちんとできる!」ようなのを参照して、何かコツはないものかと探しますが、大体みんなが言ってることは自分もやってる(大雑把に、ですが。)

 

きっちりキチキチやらなきゃダメ?

 

計量はきちんとやってます(でも水がドバッと20グラム多めに入っちゃったり、という時もある)(けどあんまり結果に関係ない気がする。)

 

どう焼きあがっても味はいつも美味しいんですよ。

だからあんまり失敗したという気にならない(見かけが格好悪いなあ〜と思う程度。)

 

この方すごいんですよ↓プロじゃないと思いますがいろんなギアを揃えててガンガン焼いて比較検討したりして楽しんでらっしゃる。

www.culinaryexploration.eu

 

こんな記事見つけました

東京の街から広告を取り去ってしまったらどう見えるのだろうか、というのを写真に撮った風景から広告(と看板も)を消してしまうことで実現(写真の上だけですが)してしまったフランスのヴィジュアル・デザイナーのNicolas Damiensさん。

 

モノクロ写真という理由もありますが、なんだか東京の街が別の場所みたい。

文章は冒頭の導入文とコメント欄だけで、写真だけの記事です↓

www.theguardian.com

冒頭には「広告(看板)ありとなし、どっちが好きですか」という問いがあります。

 

コメント欄には意外とあの雑然として派手な看板だらけな風景の方が良いという意見がちらほら。

広告や看板を取り出した後の空白部分がそのままになっているから、そこが空洞で何かがたらないように見えてしまうので、アートか何かを入れないと寂しい、という意見も。

 

実際街中の派手なビルボードを禁止にしたり一時的に広告面にクラッシックな絵画などのアートに入れ替えた都市の試みなどもあります。

 

東京や他のアジアの都市の広告や看板のカオスな様子は、欧米圏から来た人たちにはエキゾチックでワクワクする、何が書いてあるのかわからないからミステリアスでなんだか素敵なものに見える、という効果があるようです。

 

が、実際はその看板や広告がそこを通る人たちに語りかけ(叫びかけ)ている内容は、やれ金を借りろだの何を買えだのどこでどのサービスを受けろだの。

そしてその言葉がより目立つように、より印象に残るように、より周囲のものよりも気を引くように、というかなり暴力的ですらある働きかけ。

 

日本語がわからない人たちにはエキゾチックに見えて、こんな雑多なものなのに「日本はきっちりしていて電車の遅れがほとんどなくて整然としている」という正反対な印象と同居できてしまうのか、と不思議です。

 

写真では分かりませんが、東京の街を歩くと、欧米とは違う騒音が耳に入ります。

車のクラクションで忙しない欧米(北米だけかも?)と対照的に、東京では歩道脇の商店のスピーカーや店員さんの肉声でお客を呼び込もうとする声が結構うるさい。

 

 

広告と看板の区別

この記事に行き着く前に、別の記事で野外広告の表示を禁止にした都市や一時的に野外広告とアートを入れ替えてみた都市などの試みについて読んでいたのですが、最後に読んでいた記事にリンクで「東京の広告を排除、、」というのを見かけて「え?東京で広告排除は無理でしょ?」と思いながらクリックして見つけたのがこのガーディアンの記事でした。

 

みてみて、ああそういうことか、写真上でやってみた、ってことね、と納得。

 

だってね、東京みたいに消費社会・資本主義活動最優先なところで広告が出せないなんて試みは一時間たりともできないんではないでしょうか。

 

で、スクロールしながら気がついたのは「あ、この作品を作った人、日本語読めないし日本の習慣を知らないから広告と看板の区別ができなかったんだ」ということ。

 

繁華街の食べ物屋さん、飲み屋、商店、ありとあらゆる小規模商店の店先にある看板の類も全て白くなってます。

店の軒先の店名が入っていたであろう部分なども全て。

 

店の看板やメニューなども広告効果があるというか大事なメッセージですから、店の名前だけ入れてるテナントリストとはやはり煩さが違うというか派手なフォントで派手な色でガンガン攻めてきてるんだと思うので、日本語がわからず、それが店名の看板だとわからないと、広告同様売り込むためのメッセージを叫んでいるように見えたのでしょうか。

 

いやむしろ、店名だから看板なんだと思っている通行人は実は広告を見せられているのでしょうか。

 

 

広告が現代人の生活の中に入り込んでいる有害性

広告は昔から人々の心理に働きかけてモノを売ろうとする、ともするとその目的のためにサブリミナル効果を利用したりとかなり攻撃的で、ある程度の規制が必要とされてきたもの。

子供向けのテレビ番組の時間帯に挿入される宣伝などはどこの国も大人向けよりも厳しく規制されますが、それでも資本主義社会で育った私たちは四六時中宣伝のメッセージに耳も目もさらされています。

 

宣伝、マーケティングとは、今現在の私たちに「何かが足らない」「何かがおかしい」「何かがうまく行ってない」という前提を押し付け「でもこの商品を使うと」「この商品を買うと」その不足が補われおかしな部分が修正され、何もかもがうまくいきますよ、というお話の展開を信じ込ませようとします。

 

だから、今現在の私たち、実は事足りていて、物事がちゃんとうまく行っている「のではなく」何か問題があるよ、と、要らんこと言って平和を見出してくるのです。

 

野外広告を排除する試みをした都市についての記事はこちら↓

www.theguardian.com

 

広告は野外だけじゃないですけれど


ヴィーガンランキング