食いしん坊、北米でヴィーガンになる

北米で植物性食品を食べて強く生きる記録

お揚げさんでご飯と、読書会ならずの韓国文学

柔らか厚揚げと茄子の炊いたん、味噌汁付き

平たいお揚げさんは日本語付きのパッケージでちょっと割高なのですが、中国語パッケージで丸っこい揚げたものは日常価格で手軽に買えるので、私がモントリオールで作るお揚げさん入りの料理は全部お揚げさんが丸っこいです。

そして揚げ物だけに油がやはりアレなので、湯をかけたり軽く湯掻いてみたりして油抜きします。

 

厚揚げも好きなのですが、中華系の厚揚げ的な形状のものは、硬い豆腐を揚げたものなので、しっかりした形を保持したままで調理できるという利点はあるものの、ふんわりした厚揚げに味を染み込ませて、、、となるとちょっと硬くて不足です。

 

が、去年あたりから、丸っこいお揚げさんとカチカチの厚揚げの中間くらいの、中身の白い部分がふんわり残っていてそれでいてカチカチの厚揚げではない、そんな商品が出てきました。

 

ちょっと頼りない厚揚げという感じ。

そういえば日本でもやわらかーい厚揚げというのが最近色々あるようで、ひょっとしたら世界的に柔らかい厚揚げお揚げブームなのか?

 

 

少年が来る/Human Acts(ハン・ガン著)

ノーベル賞受賞なさったハン・ガン氏の小説、「少年が来る」を先日読み終えました。

読み始めてから二ヶ月ちょっとかかりました。

なぜなら、台所リノで落ち着かない日々だから。

全てが台所工事を中心に進んでいる現在です。

 

時間が空いても、気持ちが本に集中できないと読書ってできませんね。

 

ja.wikipedia.org

英訳でのタイトルは、Human Acts。

ノーベル文学賞受賞のせいもあるんでしょう、図書館では借りたい人のウェイティングリストが結構長くて、やはり受賞をきっかけに読んでみたいと思った私が予約を入れても、回ってくるのは年明けのようでした。

帰省前だったので、それなら日本語訳を読んでみようと、日本で買いたい本リストに加えました。

 

日本では最初に「すべての白いものたちの」を読みました。

次に手に入れたのは少年が来る。

 

これは光州事件を舞台にした作品で結構重いらしいと聞いていたので、一人で読むのはちょっとなあ、なんて及び腰になり、カナダに戻ってから夫に英語版を読んでもらい、こちらは日本語版を読んで、読書会しようよ、という企画を立てました。

 

そしたら、夫は見事「これ好きじゃない」と途中で放り出した。

 

なぜ嫌なのか、と聞いたら、登場人物の名前が男女の区別がつけられない、今語ってるのが生きている人物なのか死者なのかわからない、物語が時間軸通りに綴られるわけではなく、複数の人々の、それぞれの視点から語られるので、だんだんどの人がどの人のことを言っているのかわからなくなる、などなど。

 

最初は夫の方が先を読んでいたので、そうかなあ、と思っていたんですが、私も夫に追いつく頃には少々混乱してきて、納得。

 

ただ、日本語訳の場合は男女がわからない、というのはほぼありません。

 

**姉さん、などと書いてあるので女性だとわかるし、会話では言葉の終わり方で男女の区別ができるから、意識しなくても確認しながら読み進めます。

 

名前の性別を判断するヒントになるのは、ヨーロッパ系言語の場合は名前がA やEなどの音で終わるかOで終わるか、などだったりしますが、そんなのアジア言語の名前だと関係ありません。

 

日本語の名前で言うなら、はなこさんはHanakoで、Oで終わるから男の名前?たつや君はTatsuyaですから、女の人?と言う具合です。

 

アルファベット表記された韓国名から登場人物の性別を区別するのは私だって無理そうですから、仮に私が英語版を読んだとしてもわからなくなってたと思います。

 

そんなこと大したことじゃなさそうですけど、登場人物の誰が誰やらわからなくなったら確かに話の筋が追えないし、わからなくなりますよね。

 

 

そういうわけで、読書会はできませんでしたが、異なる文化圏の小説の翻訳って思った以上に厄介そうだ、という感想。

 

夫が脱落するまでは、二人とも翻訳版で読むわけだから、当然英訳と日本語訳とでは違う世界が繰り広げられるだろうから、それを比べてみたかったんですけどね。

 

韓国は日本の隣国ですし、食べるものも似てるし漢字を使うし、家族関係でも社会の中の人間関係でも儒教の影響が色濃くあるし、世界観に共通点が結構あるのではないか、だから翻訳されているとはいえ割と原書とのギャップはないのではないか、、なんていう思いと、同じ東アジアとはいえ、韓国と日本では人々の性質が結構違うと聞くし、表現の仕方も違うと聞くし(韓国では感情をはっきり出すことが多いのに比べ日本ではグッと押し殺す場面が多い、とか)そこらへんで英語圏で受け入れられている感情表現と韓国語文学の表現とが繋がりやすい部分なんていうのもあるのかな、、なんて想像していました。

 

実際に読んでみて、まずこのご時世ですので、力のある者たちが同じ人間に対してどこまでも残酷になる様子に、これは韓国だとか人種とか関係なく、まさに人間性のお話だと思いました。

 

フランクルの「夜と霧」にも通じる世界なのですが、夜と霧は英語のタイトルはMan's Search for Meaning、人間の、生存の意味の探究、というような意味合いです。

ナチスによるホロコーストの生存者である著者による、極限状態に置かれた人間たちがどう他者を扱うのか、どう生き残ろうとするのか、その姿を通して人間性というものが明らかになるとすると、ハン・ガンの少年が来るも、まさにHuman Acts(人間の行動)を通して、尊い命と醜い人間性を描いています。

 

尊い命、というのは往々に殺された被害者のことを語るときに使われがちな表現である一方、人間性の醜さといえば加害者を描写する時に使われがちなのではないかと思うのですが、本作では生き残った人々がそのトラウマの記憶から己に対して強く感じる感情としても繰り返し表現されます。

両方とも人間性の一面。

 

光州事件当時の韓国の政情と私が生きてきた日本やカナダの政情とはかけ離れているし、感情表現に関していえば、ステレオタイプな激しさみたいなものはかすりもしませんが、読む前にぼんやり想像していたものとは全く違う世界でした。

 

 

もっと落ち着いてから読み返そうと思います。


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