食いしん坊、北米でヴィーガンになる

北米で植物性食品を食べて強く生きる記録

なぜヴィーガンでなければならないの?

今日のブログはかなり長くなりました。結論のない文章なので、お急ぎの方はご注意くださいませ。

ハチミツ問題

友人たちと雪深い山の中をスノーシュー(橇・カンジキ、の現代版みたいなのを履いて雪の中を散策するスポーツ)していた時のことです。

ちょっと休憩、とスナック菓子やリンゴなどを各自リュックから取り出してもぐもぐと食べ始めた時に、グラノラ・バーの原材料リストを眺めていた友人Cが、

「きゃすぴえ、ヴィーガンはハチミツはどうなの?食べられるの?」と。

そこで、こう答えました。

「ハチミツは、蜂という生き物によってつくられるものだから、ヴィーガンは食べないよ。ヴィーガンは、動物を利用しない、ということだから。」

友人Cは「ハチミツを採るために蜂が殺されるわけじゃないんだから、ハチミツは例外、という考え方はできないもんなの?ハチミツの生産が温室ガス排出につながるわけじゃないし、環境破壊もしないと思うけど?」

私は昔から、ハチミツの味が好きではなくて、好んでハチミツを舐めたいとか使いたいとか思ったことは一切ありませんでした。ヴィーガンになる数年前に、風邪をひきたくなくて、いろいろと調べていた時に、ハチミツは抗体を強くするためにいいとかなんとかいう話を聞きかじり、風邪をひきそうな時に生姜をすりおろし、ハチミツを小さじ一杯入れてお湯で溶いて飲む、ということをしたりしましたが、「薬だと思って苦手な味だけど頑張って飲むぞ」と思っていました。

だから、ヴィーガンになってから無理なくさっさとやめた食品の一つです。

だから、あんまり考えたことがありませんでした。

ハチミツって、蜂はどういう目的で生産してるんでしょうか。

ハチミツの生産のために養蜂農家が蜂をたくさん飼うことは、蜂が植物の雄しべと雌しべが受精することを助けるわけだから、いいことだ、という友人Cに反論する知識もなく、まあそうだよね、と思うのですが、ミツバチの集団が、自分たちの利益になりもしないのに一生懸命蜜を作り出して溜め込んでいるわけはないだろうと思うのです。(WIKI先生によると、ハチミツは蜂の食料となるべく蜂の巣で加工されるんだそうです。てことは、人間や他の動物に取られたら食料取られたってことですよねえ。やっぱり迷惑でしょう。)

人間が奪わなければクマとか、別の動物だって奪うんだから、いいじゃないか、という発想になるのがヴィーガンにならない人たち。一方ヴィーガンの自分は、きっちりと反論する理由が欲しいのですが、勉強不足のせいで反論らしい反論はできませんでした。

まあ、友人なので、次に会った時にまた話せばいいだけなので、それはいいのですが。

 

乳製品と友人と

さて、一月六日はエピファニーで、クリスマスツリーの飾りを眺めるのを片付ける日(捨てる日)であり、フランスではガレット・デ・ロワを食べる日、別の宗教熱心なキリスト教国ではもっといろんな行事がありそうな日です。

たまたまフランス出身でお菓子づくりが大好きという友人がいまして、彼女に「一緒にガレット・デ・ロワを作らない?」とお誘いを受けました。

彼女は私がヴィーガンなことは知っていますが、フランス語で話すときに、ヴィーガンとヴェジタリアンの区別がちょっと曖昧な私、卵もバターも食べないと言って驚かれたこともありますが、彼女の中では「肉も魚も食べない」部分はきっちり鮮明に記憶されている模様ですが、バターや卵の部分は忘れられがちみたいです。

まあ、以前一緒にカヌレを焼いたりしたこともありますからね。日本人のくせにフランスのお菓子を作るのが好きな人として覚えられているかもしれません。

フランスのお菓子は、西洋のお菓子の例に漏れず、卵もバターもガンガン使われますからね。

で、お誘いのメールを受けた時、「楽しそう!もちろん一緒に作りたい!」と思うと同時に「ああでも、きっと私のヴィーガニズムのことは忘れてる、、、言うべきかな、でも言うと気を使わせるなあ、どうしようかな〜」と。

ガレット・デ・ロワは日本人にも多分馴染みが深いと思うのですが、パイ生地にはバターがたっぷり、中身には卵しっかり、バターもバッチリ、牛乳もちょっぴり入っています。これのヴィーガンバージョンのレシピを発見して誘ってくれたんだと思うほどナイーブではない私。

ちょっと迷ったんですが、これは彼女の国の伝統行事だし、そこに「私はそれ、食べられないから」と言って「だからレシピ改造して」とか「だから参加しない」とか言いたくなかったので、そのまま参加してきましたよ。

 

で、結果を言うと、時間切れで(焼く前に、準備したパイを冷蔵庫に一時間保存して馴染ませるんだかなんだかというプロセスがあった)製作途中で帰宅することになったのです。なので、さあ試食しよう、という段階で決断をせまられることはありませんでした。

でも、こういう機会はまたあると思うんですよね。

ヴィーガンのデザート、別に私自身は困らないんですが(甘いものが好きな方ではないので)お菓子大好きなフランス人のお友達と、以前のようにホイホイバターをクリーム状にしたり卵を泡立てたりできない状況、これはちょっと困った。

乳製品や卵は、環境問題というよりも、動物に対してかなり酷い行為を経て生産されるものですから、ヴィーガンになる以前から結構悩んでいたアイテム。これを大量に消費する焼き菓子類は、楽しいし美味しいけれど、やっぱり食べたいとは思えないのです。

 

ヴィーガンという立場?

自分がヴィーガンであるというのは、どういうことなのか、それを考えるとはたと考え込んでしまいます。

このブログでも何度か書いてますけれど、私がヴィーガンになった当初の動機は環境問題です。

地球温暖化が自分がヴィーガンになったからってそれで解決するとは思っていません。

あなた一人が動物性の食品を一切拒否したからって、なんぼのもんよ、と言われたら、それはそうでしょうね、としか答えられないと思います。

貧しい国の人々、いや、先進国でリッチな国に住んでいたとしても貧しい人々にしてみれば、お腹がいっぱいになって満足感や幸福感が得られるんだから、手にはいる金額で買える肉、乳製品、ハチミツなどを食べることに文句を言われたくはあるまい、と思います。

ヴィーガニズムやオーガニック・ムーブメントはしばし、金持ちの贅沢な戯言のように言われますけれど、まあそう言う人の気持ちはわからなくもない。

 

そしてその一方でヴィーガンになって以来、自分がどんどん動物愛護派になっているのがわかります。デモ行進に参加したりはしませんけれど。(案外、来年あたり参加してたりして、、、)

身につけるものも、動物の命を奪ってつくられた製品を見ると、「ああ、これのために殺された動物がいるんだ」と意識しないではいられない。

普通に店に売られているし、これが当たり前だし、という状況で、動物のいのちについて考えずに動物の部分(毛皮とか、羽毛とか、皮とか)を身につけている人たちを直接的に批判する気持ちはないですよ。あんまりにも普通なことになりすぎていて、気が付かないということだと思うので。自分だって3年くらい前ならウールのセーターとか、革靴とか、気にせず手にしていたと思います。

でも、単純に見て、どれだけ商業的な行為が動物の命を犠牲に成り立っているか、それを消費者が無意識に支えているか、を見ると、なんとも言えない気持ちになります。

毛皮のコートを持っている人はあんまりいないと思うのですが、ここ10年くらい、毛皮のトリミングがついた冬用のジャケットを着ている人たちを多く見かけます。

そう言うデザインが流行りというか、ありがちというか、だから、冬のコートを買わなきゃ、と買い物に行って、自分のサイズ、予算、好みのデザイン、暖かさ、などという基準に従って気に入ったものを選んでみたら、たまたまフードに毛皮のトリミングがついていただけだった、という理由で身につけている人たちだってかなりいると思います。

そんなに高価でもないコートにじゃんじゃんついているトリミングの毛皮、あんまり安価だから、きっとフェイクファーよ、と思い込んで買った人もいるかもしれません。

なぜそんなに安価にふんだんに毛皮が使われているのか。

それは、服飾産業が発展途上国で犬の毛皮を収穫したものを利用しているからだと聞きました。犬だけじゃないかもしれませんが。

それを聞いて以来、地下鉄などで自分の周りを見回して、毛皮のトリミングがついたコートを着ている人の数を数えると、座席が全部占められている程度(立っている人はそれほどいない程度)の車内でも、10人を下回ることはなく、下手すると30人くらいいたりします。

どんなサイズの犬だかわかりませんが、一匹で一人分のコートだとすると三十匹、一匹から二人分がとれるとしても十五匹の命がコートのために失われたんだなあ、と思うと、うわあ、着ている人たちは、そういう行為に加担してるという気持ちは絶対ないだろうなあ、でも気がついたらきっと嫌だろうなあ、と。

 

話をヴィーガン・ダイエットに戻しまして、、、

ごちゃごちゃと書いてまいりましたが、ここ1−2週間の出来事が私に考えさせたことといえば、

ヴィーガンという定義に当てはまるように行動することが大事なのか、それとも、一つ一つの動物性食品の状況によって柔軟に対応するべきなのか。

作るプロセスに参加しておいて、口に入れさえしなければそれはヴィーガンな行為なのか?

 

自分一人の行為で何かを変える、とか、そういう大それたことを考えているわけではありません。でも、自分が環境破壊や動物虐待に参加したくない、という基準でいえば、ヴィーガンでいることで、かなり参加度は低くなっているとは思います。

友人知人とヴィーガニズムについて話し合うことで、自分の考え方や見方、経験を踏まえた率直な感想が、動物を食べるということや、動物を消耗するということについての再考察を彼女・彼らの間に促すことができればいいとも思います。

それと同時に、自分の行動についても、何かと見直したり考え直したりすることが必要になるもんだなあと。ヴィーガンをやめるつもりは毛頭ありませんが、なぜヴィーガンか、を考え続ける必要はあるなあと。

 

本日も長々とおつきあいいただきまして、ありがとうございました。

 


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