またしても週末、田舎へ足を伸ばして来ました。
紅葉を見に、、と言うのが目的ではなかったのですが、先週終わりかけだった北の山々を見たあとですが、この週末は東(南)の終わりかけの紅葉を満喫。
自分へのメモ:来年はアップル・ピッキングの最終週の一・二週間目に田舎へいこう!
川に人間と同じ権利を
アメリカの先住民、Yurok族がこの五月、Klamath川に人間と同じ権利があると宣言したというニュースを読みました。
それ、どういうこと?
と思いますよね。
人間ではないのに人間と同じもしくは一部分の権利が認められている存在は現在では企業がありますが、それもおかしな話です。
でもまあそうなんだからしょうがない。
Yurok族は川に人間や企業と同じ、個人や個体に認められている基本的な権利があると一族の法廷で定めたのです。
Yurok族が住むのはカリフォルニア州の北西部あたり(ウィキ)
過去数年来、毎年初夏になると川の水位が下がり、水不足のため川に戻ってくるサーモンが病気になる可能性が上がりサーモン・フィッシングが中止になるなど、Klamath川にとって困難な状況になります。
これをなんとかするために、川にも権利が必要、と。
川に人間と同様の権利を認めるという宣言をすることでYurok族は地球環境の保護を目的として盛り上がりつつある「自然の権利」ムーブメントを推し進めている他の原住民族たちのグループに参加しました。
他にどんな部族のどんな動きがあるかというと、
- 昨年、ミネソタ州でワイルドライス「マヌミン」とその存続に不可欠な淡水源を保護するために、マヌミンの権利を採用したオジブウェのホワイトアース部族。
- 2017年、マオリのイウィ族との条約プロセスに由来するワンガヌイ川の権利を採択したニュージーランド政府。ワンガヌイ川は独自の法的主権を所有することになります。
他には先住民族が彼らの土地と資源を保護する権利を不可侵なものとした国連による先住民族の人々の人権宣言(Declaration on the Rights of Indigenous Peoples)の影響もお大きい模様。
(国連の宣言、日本語訳を探したら「先住民族の権利に関する国際連合宣言」のようですね。)
視点・考え方をシフトさせる
Yurok族の決議の成立に貢献した准弁護士Geneva Thompson氏によると「Klamath川に人格の権利を付与することにより、川を法的に擁護する手段を確立しただけでなく、Yurok族の価値観を表明することができた」と。
地球環境問題への姿勢や取り組みってその人や団体、企業、国家などの価値観が基本ですもんね。
川、米、水源、などに人間と同様の権利を与えることによって、公害、旱魃、気候変動などと言った諸問題に対する対応の仕方が変わると良いですが、実際にはこれが法廷で試されたことはまだないそうです。
こういうニュースを聞くと、「なんだ一体、そんなことあり得るわけないじゃないか」という反応も聞かれますけれど、実際に環境保護を真摯に捉えると、地球環境を人間の所有する便利な資源として扱い続け利用し続けた我々の行為そのものが許容されうる限界にすでに達してしまったと思えてしょうがないんですよね。
川に人権を、と言うと冗談みたいですけれど、川にだって地球のどの存在にだって、その存在を健やかに保ち自然の営みの中で健康的に存続し続ける権利があって何がおかしいのか、、と思えます。
ヴィーガン、特に動物愛護の目的でヴィーガンになった人たちが、人間以外の生物にも権利がある、と言う言い方をすると途端に「感情的になるな」「馬鹿馬鹿しい」「じゃあ植物の権利は」と言う人たちが存在しますが、実際に「米」にも権利が認められてしまってますからね、植物にだって存続し続ける権利を認めてやってもいいと言うことですよね。笑
自然の営みの中で、動物は草や植物の根っこを食べたり他の動物を食べたりしますから、自然に権利を認めること=自然界に存在するものを一切食べない、殺さない、と言うことにはなりませんが、現在の人間の経済活動のやり方は、自然界に存在するものは全て人間の思うまま、と言う態度ですから、それをやめなければどうしようもない、と言うことだと思うのです。
記事の中にもありますが、各地の先住民族が人間でない存在(自然)に権利を与え始めるうちに、先住民族以外の人々や国家がその考え方や態度を参考にするようになり、近代国家の法制度にこの姿勢が組み込まれていく可能性が生まれます。
それがひいては地球環境の保護のために有効だと。
むかーし、日本でもアメリカ先住民の知恵や思想関連の書籍が流行ったことがありますが、アメリカ先住民に限らず、多くの先住民や、私たちの先祖、多分どこの文化圏の人々の先祖だって、自然の脅威のもとに自分たちの体を使って食べ物を確保し暖をとり家族や集落の生存のために生きていた(って言うと変ですけれど)人々は、自然界と自分たちの繋がりの捉え方が現代人のそれとは全く異なっていたと思います。
そういった自然観と言うか世界観と言うか、その視点を地球環境保全へのアプローチに組み込もうと言う動きですよね。
自然界の権利という動きはコロンビア、エクアドル、そしてインドなどですでに確立しているようですし、アメリカでもすでに先住民族以外のコミュニティにも波及しているようですが、こういう考え方がすんなり近代国家に受け入れられるのはなかなか難しいのは自明で、オハイオ州やコロラド州では住民の「自然に人権を」の動きに対して州政府が制止の動きに出て、コロラド州では運動自体を潰してしまうことに成功したようです。
法律として成立するかどうかはすぐには難しいでしょうけれど、前述のThompson氏が言うように、「こうした試みは地球環境そのものがクリーンな、本来の姿のままであるように保護される権利を持っていると言う視点を前提とするので、対話のあり方や価値観そのものを大きく変える」ことに繋がると良いと思います。
Indigenous Peoplesは日本語だと「先住民族」なんですが、なーんだかこの言葉、差別的な響きを感じてしっくりこないのは私だけでしょうか。