今週のお題「地元自慢」
地元ってどこ
生まれ育った土地というのが一箇所じゃない、いわゆる転勤族というのでしょうか、かなり昭和の香りがする表現ですが、そういう状況で世に生を受けたため、自分の中に「私はここの出身者」と繋がりを感じる土地がありません。
もちろん住んだ土地のどこも、旅で訪れた土地に親近感を感じるのと同様、いやそれよりはもうちょっと強く親近感を感じますけれど。
引っ越しが好きでした。
お別れは寂しいですが、次に未知の世界が始まるという期待があって。
新しい土地に行くのはワクワクします。
日本では東京の大学に進んだので、東京でその後10年くらい住みましたけれど、大学時代知り合った人との会話の多くは「どこの出身?」から始まった気がします。
あんまり地元意識もないしそこで生まれ育ったわけでもないから気が引けましたが、出身地=高校を出たところ、だから良いのだと。
当時は東京に10年も住んだのが人生最長の「地元」記録でした。
親が九州の出身なので、九州出身の人と出会うと「おおお、親が同じ県出身なんですよ」と親しみを感じたりしましたが、自分自身は耳慣れているとはいえ、九州弁を話すわけでもなく、真似してみるとやっぱりなんだか嘘くさいので、自分は九州人じゃないんだなあ、とちょっと寂しい気持ちも。
幼児の頃に一年位住んでたんですけどね、言葉に影響が出る前に別の土地に引っ越したのが今になって悔やまれる。
地元が安心で余所者が不安な心理
そういうわけで、若いうちから常に余所者というか、どこか別のところから来た人間という役割で過ごした日本。
日本を出て、モントリオールに来てからも「あなたはどこのひと?」と聞かれますが、これは別にカナダに来て初めてのことでもないので慣れたもの。
一度、カナダの田舎の街の観光地(とはいえ大きな公園だったんですが)の公衆電話(というのが存在した時代)に小銭入れをおき忘れたことがあります。
電話をした相手とのやりとりに気を取られて、小銭入れを電話機の上に置いたのをすっかり忘れて電話を切ったあとスタスタと歩き去って、多分5分くらいして「あ!小銭いれ!」と気がついて引き返したものの、もうそれは忽然と消えていたのでした。
小銭いれには文字通り小銭じゃらじゃらと、20ドル札が一枚入っていたので、多分30ドルあるかないかくらいの被害でした。
被害というより置きわすれた自分のせいですけど。
で、ひょっとしたら公園事務所に行ったら届けられてるかも!
と思って聞きに行ったのです。
事情を話すと、カウンターに座っていた女性が「あら〜可哀想に、小銭入れの届出はないんですよ。きっと誰かが持っていってしまったんですね。きっと旅行者ですよ、この島の住民だったらすぐに届けてくれるはずだけど、最近旅行者が増えてるから。本当にお気の毒です。旅行者がきっと持っていってしまったんですよ〜」
気の毒がってもらって、はあ、そうですか、まあしょうがないですね、と事務所を出ながらも、悪は外からくる、内部には善しかない、という大前提にやはり良い気持ちはしませんでした。
善も悪も、世界中に普遍的に存在するもの
面倒なことも悪質なことも、厄介なことは自分たちの内部からも発生する場合が大いにある、ということを認知して常に意識していないと、排斥主義とか差別とか、そういうことも無自覚のうちに蔓延ってしまいます。
先日ネットで、田舎の駅前で演説しているどこかの政党の方が、「**人や**人は盗みます。日本が大好きです。」というようなことを熱弁している様子を見かけました。
かなり狭く偏った世界観をお持ちですね。
こういう感じの人は日本だけでなく世界中にいますけれども。
政治活動でこんなこと言えちゃうのもかなり酷い話ですけれども。
住めば都
とはよく言ったもんだと思います。
現在住んでいる街には、今までの人生で一番長いこと住み続けています。
文句もたっぷりありますが、今のところここが地元。
自分もよそから来てるので、誰かがよそから来ても別に警戒しないし、この国に住んでいる人の大半がどこかからきた人々とその子孫なので、そういう点でも気楽。
とは言え差別的な視点や信念を持ってる人はいますけれども。
自分と異質な者への警戒心というのはそれほど不思議なことではないので、異質な人たちと頻繁に交流して良い経験をすることでその警戒心が溶けてなくなると良い、という考え方があります。
市内各地にある幼稚園というか保育園というか、そういうところで小さなうちから多民族多人種混ぜこぜでやいやい遊んでいるのをみると、まずそういう警戒心は出にくいだろうと感じられてホッとします。
地元、いいですよ。