子供の頃から慣れ親しんだ
夫は大家族で、しかも個人経営の鶏卵農家で料理の嫌いなお母さんの作るご飯を食べて育ったので、「お袋の味」なんて表現があるとしたらそれは「苦痛」だったと言います。
「お袋の味」っていう言い方、私が子供時代はたまに耳にしましたけど、今でもいうのかな?
家で料理をする人が女性ばかりで、しかも上手でなければならないというプレッシャーが込められてるような感じで、私に子供でもいてこの言葉を聞いたら若干抵抗を感じそうです。
それはさておき、夫(も彼の姉妹も兄弟も)は義母の料理が本当に辛かったよう。
10歳くらいの頃に盲腸で入院して病院で出てくるご飯が美味しくて退院したくなかったと本気で思ったらしいくらいに義母のご飯は美味しくなかったらしい。
そんなこと言うと気の毒と思うんですが、義母は料理することが好きじゃなかったし、それゆえ「味じゃないのよ栄養なのよ、贅沢言うのは罪なのよ」と開き直ってて、確かにあれで育つとキッツイかも。
編み物はすごく上手で大作をガンガン作って人にあげていたし、庭仕事も家中のありとあらゆることをこなしていたし、何より頭脳明晰で会話が楽しく、優しくて大好きでしたから、食事が上手に作れない(作る気がない)くらい仕方ないかもね、と言う気もします。子供にはかわいそうですけども。(決してよくあるネグレクトではなくて、美味しくない、と言うだけです。)
そんな義母が拵える夕ご飯は、曜日ごとに決まっていて、そして基本は「肉、野菜、じゃがいも」だったそうです。
これって北ヨーロッパ系の質素な社会の定番ですし、北米の多くの人々の夕飯のパターンでもあるといえます。
もちろんそうじゃない人もいますけど。
献立の立て方や食事のバランスの取り方がこういう感じで育った人がヴィーガンになると、皿の半分を占めるべき「肉」がなくなるので別のタンパク源を求めて工夫をするわけですが、やっぱりこういう、「肉、野菜、芋」と言うバランスが一番安心する人たちには、ビヨンドとかインポッシブルみたいな代替肉がとても便利なんでしょうね。
確かに夕飯の支度をするにしても、肉か魚をフライパンで焼いておいて、マッシュポテトと野菜一種類をしたくする程度なら手軽です。
そういう献立に慣れてた夫、つい最近見つけたヴィーガン・チキンフィレを買ってきて「もっと色々と献立の幅を広げられるかなと思って」と夕飯を作ってくれたのが上の写真です。
これね、毎晩こういう献立じゃあ飽きるんですが、たまにこう言うのは悪くないです。
でもね、残念なことにこのヴィーガン・チキンは、なーんだか酸っぱいようなちょっと馴染めない風味がして、なんとなく好きにはなれませんでした。(そのうちもっと美味しい製品も出てくるでしょうけれど。)
食感とか舌触りはかなり鶏の胸肉に近かったんですけどね。
濃い味付けをしたら気がつかないかもしれませんけど、あんまり濃くするのもね。
と言うわけで、一年に2回くらいなら大丈夫かもしれないけど、頻出はしてほしくないと願うヴィーガン・チキンでした。
こう言う場合夫はチキンで私だけ豆腐でも良いんですけどね。
夫は今の所豆腐の取扱は躊躇するようです。
簡易版ナス炒め
ナス大好きですので、夏はじゃんじゃんナス食べます。
随分前に見つけたヴィーガン・中華の料理本に載っていた茄子の炒め物がものすごく美味しくて、二、三回作ったんですが、しばらく作らなかったので調味料の配合や手順が曖昧。
忙しく大急ぎで作った夕飯でしたので、本を引っ張り出してきたりするのも面倒で、なんとなくぼんやり覚えている部分だけ頭の奥から引っ張り出してきて、若干手抜きで簡易版を作りましたよ。
それでも十分美味しかった。
本で見たレシピはこうやって自己流になっていくんでしょうね。
自己流は、豆板醤とヴェジタリアンのホイシンソース、醤油を合わせたものと、先日作ったジャマイカのグリーンソースっぽい自家製ソースを合わせて油多めで炒めた茄子に絡めて出来上がり。
豆板醤はちょっと塩気がきついので少なめにしましたが、グリーンソースの辛さで十分スパイシーでした。
そういえば以前YouTubeで見かけたコウケンテツさんの茄子のレシピで、茄子をこうやって炒めれば綺麗な紫色のまんまです、というのをみて、その通り真似したんですけど、私の茄子は茶色っぽくなってしまうのを避けられませんでした。
茄子の種類の違いでしょうか?
それとも真似てるつもりできちんとできてないだけ?
ちょっと美味しくなかろうと好みバッチリだろうと、食べられることはありがたいですし、飢える人が地上からいなくなるように、と思っています。